2017年 02月 19日
沈黙 / サイレンス ~ 神は慈悲なり |
遠藤周作の小説をアカデミー受賞監督マーティン・スコセッシが28年の歳月をかけて映画化した力作。
危険を顧みず日本へとやって来たイエズス会宣教師の目を通し、信仰とは?信念とは?さらに人間の弱さとは?と問い詰めた骨太な作品です。
時は17世紀、キリスト教が禁じられた日本で棄教したと噂される恩師フェレイラの行方を確かめるため、仲間と共に日本に潜入した若き宣教師のロドリゴ。
厳しい弾圧を受ける切支丹たちのパードレ(司教)を求める声に、残された唯一のパードレとなってもなお応えようと試みるのですが・・・
幕府代官はロドリゴが棄教せねば村人たちが苦しむだけと、ロドリゴ本人ではなく、罪なき村人たちを見せしめに拷問し次から次へと惨殺します。
自分も村人たちもこのように苦しんでいるのに、なぜ神は黙ったままなのか?と天に祈りつつ・・・
さらに再会した恩師も転び伴天連となっていた事実に驚愕し、苦悩するロドリゴ。
アンクルの敬愛するスウェーデンの映画作家イングマール・ベルイマンと同様に、人々の苦しみになぜ神は沈黙し続けるのか?との問いかけがテーマです。
ロドリゴは激しい苦悩と葛藤の末ついに「踏み絵」に足をかけ棄教に至ります。
キリスト教徒として超えてはならないとされた一線を超え、すべてを捨て去ります。
それよりほかに村人たちを救う手立てがなかったのです。
ロドリゴは拷問される村人たちを前に「踏み絵」を迫られた一瞬、そこに描かれたイエス・キリストの声を聞きます。
(踏み絵を)踏みなさい。
私を踏みつけることを恐れることはない。
神は沈黙しておられるのではない。
あなたたちと同じように苦しんでおられるのだ。
だからその苦しみを分かつために私を遣わされたのです。
新約聖書には、イエスはゲッセマネの最後の晩餐の席上、自分を裏切る者のあることを予言したうえで、その者を赦し、その者のために祈りを捧げたと記されています。
ロドリゴにはその時のイエスのまなざしが垣間見えたのかも知れません。
彼は、転び伴天連、裏切り者の汚名をあえて着てまでも、罪なき村人たちを助けようとしたのです。
その選択は決して背教者の裏切りではなく、むしろ聖職者として本来の在り方ではなかったか?とアンクルは自問自答しました。
その先には、人間の愚かさ弱さを厳しく糾弾するのではなく、すべての人々の苦しみを背負い、己を踏みつける者をさえ認め赦す、慈悲の心を体現した『神』の姿があったはずです。
新約聖書に云う『神は愛である』姿そのもの・・・
そして、まるで慈母観音のごとくです。
おそらく日本人としてのキリスト教徒たるアイデンティティを模索し続けたであろう遠藤周作が、欧米に一般的な「罰する」神の概念に馴染めず、「慈悲」に日本的な神の概念を見つけようしたのではないか?と考えさせられました。
なぜか『亡己利他(己を忘れて他を利する)』という、伝教大師の説く慈悲の教えにも通ずる何かをそこに感じました。
アンクルも若いころとても苦しんだことがあって、聖書を貪るように読み耽った時期があります。
しかし、どうしてもキリスト教徒にはなれませんでした。
その後、ふとしたことから比叡山を知り、結局20年以上もの間仏道の修養に通うことになります。
仏の教えに自らの救いの糸口を見つけたからだと思います。
そんなことがふと頭をかすめました・・・
危険を顧みず日本へとやって来たイエズス会宣教師の目を通し、信仰とは?信念とは?さらに人間の弱さとは?と問い詰めた骨太な作品です。
時は17世紀、キリスト教が禁じられた日本で棄教したと噂される恩師フェレイラの行方を確かめるため、仲間と共に日本に潜入した若き宣教師のロドリゴ。
厳しい弾圧を受ける切支丹たちのパードレ(司教)を求める声に、残された唯一のパードレとなってもなお応えようと試みるのですが・・・
幕府代官はロドリゴが棄教せねば村人たちが苦しむだけと、ロドリゴ本人ではなく、罪なき村人たちを見せしめに拷問し次から次へと惨殺します。
自分も村人たちもこのように苦しんでいるのに、なぜ神は黙ったままなのか?と天に祈りつつ・・・
さらに再会した恩師も転び伴天連となっていた事実に驚愕し、苦悩するロドリゴ。
アンクルの敬愛するスウェーデンの映画作家イングマール・ベルイマンと同様に、人々の苦しみになぜ神は沈黙し続けるのか?との問いかけがテーマです。
ロドリゴは激しい苦悩と葛藤の末ついに「踏み絵」に足をかけ棄教に至ります。
キリスト教徒として超えてはならないとされた一線を超え、すべてを捨て去ります。
それよりほかに村人たちを救う手立てがなかったのです。
ロドリゴは拷問される村人たちを前に「踏み絵」を迫られた一瞬、そこに描かれたイエス・キリストの声を聞きます。
(踏み絵を)踏みなさい。
私を踏みつけることを恐れることはない。
神は沈黙しておられるのではない。
あなたたちと同じように苦しんでおられるのだ。
だからその苦しみを分かつために私を遣わされたのです。
新約聖書には、イエスはゲッセマネの最後の晩餐の席上、自分を裏切る者のあることを予言したうえで、その者を赦し、その者のために祈りを捧げたと記されています。
ロドリゴにはその時のイエスのまなざしが垣間見えたのかも知れません。
彼は、転び伴天連、裏切り者の汚名をあえて着てまでも、罪なき村人たちを助けようとしたのです。
その選択は決して背教者の裏切りではなく、むしろ聖職者として本来の在り方ではなかったか?とアンクルは自問自答しました。
その先には、人間の愚かさ弱さを厳しく糾弾するのではなく、すべての人々の苦しみを背負い、己を踏みつける者をさえ認め赦す、慈悲の心を体現した『神』の姿があったはずです。
新約聖書に云う『神は愛である』姿そのもの・・・
そして、まるで慈母観音のごとくです。
おそらく日本人としてのキリスト教徒たるアイデンティティを模索し続けたであろう遠藤周作が、欧米に一般的な「罰する」神の概念に馴染めず、「慈悲」に日本的な神の概念を見つけようしたのではないか?と考えさせられました。
なぜか『亡己利他(己を忘れて他を利する)』という、伝教大師の説く慈悲の教えにも通ずる何かをそこに感じました。
アンクルも若いころとても苦しんだことがあって、聖書を貪るように読み耽った時期があります。
しかし、どうしてもキリスト教徒にはなれませんでした。
その後、ふとしたことから比叡山を知り、結局20年以上もの間仏道の修養に通うことになります。
仏の教えに自らの救いの糸口を見つけたからだと思います。
そんなことがふと頭をかすめました・・・
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by anculu
| 2017-02-19 17:04
| シネマハウス
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